昨日はおばあちゃんの77回目の誕生日。「喜寿」っていうんだっけ。まったく気づかない私は、「今日から9月か〜」なんてしか思ってなかった。友達も遊びにきたからウキウキしてたしね。
昨日の夜、仕事から帰ってきたヨーダが私たちの部屋に来て「今日おばあちゃんの誕生日だったんだよ、明日でいいから『おめでとう』って言ってあげて」と言い残して去っていった。ちなみに昨日の夕飯はマーボー豆腐。いつもとなんら変わり映えのしない夕飯。ケーキが出るはずもなく。おばあちゃん、糖尿病だからケーキは食べられないんだけど。
で、今朝「昨日はお誕生日おめでとうございます」って言おうと思ったのに、この口がなかなか開かないんだな、これが。忘れてしまった罪悪感もあり、ヨーダが見ている前で、ヨーダの言う通りに声をかける気持ちにもなれず、結局言えずじまいの朝でした。
こうして毎年ヨーダ&おばあちゃんの誕生日を迎える度にお祝いしなくちゃいけないんだろうか?「おめでとうございます」って言ってプレゼントのひとつでも手渡さなくちゃいけないんだろうか。ハッキリ言ってめんどうくさい。
今年の「母の日」は特になんにもしないつもりだったが、義弟がヨーダの大好物のビールを箱で買ってきて置いていった。そうなったら何もしない訳にはいかないので、旦那もビールを買ってきたようだった。それをヨーダが見つけ、私に「これ、母の日のプレゼント?」と聞いてきたときは「分かりません」としか答えなかった。
人になにかプレゼントすることは決してキライではない。「これ、気に入ってくれるかな?」「あの人にピッタリ!!」なんて思いながらあれこれ探すのも、楽しい。だけど、ヨーダとおばあちゃんになにか贈ることは、ホント楽しくない。なぜなら今まで贈ったものはなにひとつ使われた形跡がないから。沖縄土産の泡盛も、新婚旅行先で買ったお菓子も、私の両親から贈られたギフトも手付かずのまま捨てられ、母の日に贈ったカーネーションも笑いながら「枯れちゃった〜」と言ってゴミに出され、低反発のマットレス&枕も「硬いから」と言って、使う予定もなし。だったら最初からあげなきゃいい、と最近ようやく悟りました。
9月はおばあちゃんの誕生日&敬老の日、1月はヨーダの誕生日、5月の母の日・・・。毎年こういうことに煩わされるのかと思うと頭が痛くなってきます。
昨日の夜、仕事から帰ってきたヨーダが私たちの部屋に来て「今日おばあちゃんの誕生日だったんだよ、明日でいいから『おめでとう』って言ってあげて」と言い残して去っていった。ちなみに昨日の夕飯はマーボー豆腐。いつもとなんら変わり映えのしない夕飯。ケーキが出るはずもなく。おばあちゃん、糖尿病だからケーキは食べられないんだけど。
で、今朝「昨日はお誕生日おめでとうございます」って言おうと思ったのに、この口がなかなか開かないんだな、これが。忘れてしまった罪悪感もあり、ヨーダが見ている前で、ヨーダの言う通りに声をかける気持ちにもなれず、結局言えずじまいの朝でした。
こうして毎年ヨーダ&おばあちゃんの誕生日を迎える度にお祝いしなくちゃいけないんだろうか?「おめでとうございます」って言ってプレゼントのひとつでも手渡さなくちゃいけないんだろうか。ハッキリ言ってめんどうくさい。
今年の「母の日」は特になんにもしないつもりだったが、義弟がヨーダの大好物のビールを箱で買ってきて置いていった。そうなったら何もしない訳にはいかないので、旦那もビールを買ってきたようだった。それをヨーダが見つけ、私に「これ、母の日のプレゼント?」と聞いてきたときは「分かりません」としか答えなかった。
人になにかプレゼントすることは決してキライではない。「これ、気に入ってくれるかな?」「あの人にピッタリ!!」なんて思いながらあれこれ探すのも、楽しい。だけど、ヨーダとおばあちゃんになにか贈ることは、ホント楽しくない。なぜなら今まで贈ったものはなにひとつ使われた形跡がないから。沖縄土産の泡盛も、新婚旅行先で買ったお菓子も、私の両親から贈られたギフトも手付かずのまま捨てられ、母の日に贈ったカーネーションも笑いながら「枯れちゃった〜」と言ってゴミに出され、低反発のマットレス&枕も「硬いから」と言って、使う予定もなし。だったら最初からあげなきゃいい、と最近ようやく悟りました。
9月はおばあちゃんの誕生日&敬老の日、1月はヨーダの誕生日、5月の母の日・・・。毎年こういうことに煩わされるのかと思うと頭が痛くなってきます。
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